恥ずかしながら「期待族」という言葉を最近初めて知った。ふむふむ、期待族とはどうやら「暴走族」とセットで用いられる社会現象のようだ。数人の暴走族の未熟芸?を何百人もの若い聴衆が見守る。熱狂的にはやし、暴走をあおる。取締りの警官に罵声を浴びせ、時には暴走族への追跡を妨害し、その逃走を幇助する。簡単に云うとそんな一種の犯罪幇助行為をさす言葉のようである。さて、たまりかねた「大人」たちはどうしたかというと、姫路、愛媛が、そして、このほど沖縄市がこの「期待族的行為」を禁止・処罰する条例を可決したわけである。姫路・愛媛の例では、条例化の効果は絶大で、その後、同行為は鳴りをひそめたとのこと。

 期待族の行動とは、自分はできないことをやってのける人々を、大勢で応援することによって、一体感を楽しむ、または一体化したかの幻想に浸る。応援すべきがスポーツなど合法的かつ健全な行為に対してのものなら、問題はなかろうが、これが犯罪行為に対してのものだから問題になっている。

 私が面白くないと思うのは、これまで平気で警察の妨害行為をしていたのが、条例ができたとたん、やめてしまう、その気の弱さ、いくじのなさである。自分の判断力に自信がないから?いや、そもそも判断すること、それすらしていないのである。この頃の若者は一体どうなっているのか、と目くじらを立てるところである。

しかし、このような倒錯現象は若者だけに起こっているのではない。

 というのも、私の知り合いで一見、順風満帆に生きてきたように見える50代で、最近、妻子を捨て、若い女性と同棲生活を選んだ者がいる。彼は職業柄、若い人たちに取り巻かれて仕事をしている。職場には自分以外は、10代後半から20代の若者だけという。彼は起業家として、これまでいくつもの夢をもって生きてきて、そのうちのいくつかの夢を実現してきた。しかし、目標とか夢を持たず、刹那的に生きる若者を見るうちに、目的や目標を設定して、それに向かって努力するという自分の生き方に疑問と迷いが生じたという。これは彼の最後の目標の実現が年齢的に難しく遠のいたことも理由であろう。自己実現をしたという達成感と、その後襲ってくる脱力感。この二つの感覚を、夢を実現する度に味わってきたばかりか、その次の高いハードルを越えることは自分の力では不可能という無力感と諦観。50にしてみちを踏み外した理由はこんなところだろうか。

 要するに若者のなすある種の行動に対し、今の大人たちはこれが大人のもつ倫理とか常識を逸した行為であったとき、まず驚愕し、眉をしかめるものの、その善し悪しをにわかに裁定できないというわけである。なぜか、それは大人が必ずしも勝ち戦ばかりを経験してきたわけではないからである。

 日本は経済成長を成し遂げ、バブルで世界を征服したかの幻想に酔いしれた。しかし、その後バブル崩壊後の大不況から、まったく抜け出せないでいる。今まで良かれと日々行ってきた業が、実はそれは絶対勝利を約束するものではなく、それだけをもって、幸せを必ずしも手に出来ないということを思い知ったわけである。今は日本中の誰もが迷宮にさまよう。その点、家族のために黙々と働き、迷いなく、日々を送ることのできるフィリピン人が羨ましい。