フィリピンは今では主食の米を輸入に頼る「農業退国」である。これだけ、日照時間が長く、温暖な気候に恵まれながら、それを生かせないのは嘆かわしいことだ。政府はGDP伸張に容易な工業化にばかり熱心で、農業振興にはほとんど無関心。骨抜きになった農地改革は昔ながらの荘園と大地主を温存して、小作人には無気力と貧困が蔓延している。

 しかし、意識の低さは私自身も同じである。食の安全が叫ばれて久しく、「有機栽培」、「環境ホルモン」、「トレーサビリティー」、これらの言葉がマスコミに取り上げられない日は無いのに、平気でカップヌードルをそそり、化学調味料を多用する。また、農業についての知識に乏しく、無農薬と聞いて、いかに虫を駆除しているのか、有機と聞いて、化学肥料を用いずいかに作物を太らせているのか、そのしくみを知ろうとしなかったのである。

 しかし、最近、フィリピンに44年住んでいるという田鎖氏(熱帯農林技術開発協会会長)、自称「農夫」に出会って、僅かながら食と農への知識を得た。また、永石氏(農業ボランティアのオイスカインターナショナル・フィリピン所長)の話を伺って、無農薬・有機栽培が身近に感じられるようになった。さらに、マニラ‐沖縄間、フィリピン航空定期便の就航により、沖縄県人としては、サンボアンガ-沖縄間の交易振興協力をせざるを得なくなり、人生42年目にして、マジメに農業に取り組む機を得たのである。

 食の安全は、まずは買物の段階で、無農薬・有機栽培の農産物を購入することである。しかし、究極の食の安全は何と言っても、「自ら食する作物を自ら作ること」である。そんなわけで、太陽光がさんさんと降り注ぐのフィリピンで、家庭菜園に挑戦することにした。

 沖縄で30種類の野菜の種苗を仕入れてきた。そして、まずは、「らっきょう」からと、裏庭に適当な場所を見つけて、土をこね、一本一本植え込んでいった。
 それからまたたくまに3週間が過ぎ、茎葉も長いもので30?に伸びた。途中、アブラムシの卵が茎葉を一面に覆ったのにぶったまげたが、前述の永石氏に指導を仰ぎ、その駆除の仕方も覚えた。それから、私の住んでいる住宅地内のまだ、家の建たない空き地を貸して貰って、そこに小さな農園を作ってみようとも考えている。

 さらに、永石氏には沖縄から仕入れた野菜や果物、10種類の種を試験栽培のために差し上げたので、これがうまく行けば、彼が担当するヌエバビスカヤ州の農園で、これが生産され、農家を潤すとともに、我々の食卓にその作物が並ぶ日も近いと夢見ているのである。

  田鎖浩氏(熱帯農林技術開発協会会長)の講演はこちらです。

                  http://www.asahi.ph/jbcp/sept-03koenkai.htm