今日は「敗戦記念日」である。今やこの日を「終戦記念日」と呼んで違和感を感じない日本人ばかりなのだろうか。

 日本は国連への分担金、約19.9%を支払っている世界第一位の国である。本来は米国が25%と一位のはずだが支払う気がない。ロシアや英国もいつまでも滞納しているようだから国連を経済的に支えているのは日本である。にも拘わらず日本が常任理事国入りできない理由はどこにあるか。それは第二次大戦で「敗戦」したからだ。日本の国際的地位の低さは敗戦したからに他ならない。

 要するに現在の世界はいわば『戦後』(第二次大戦後)の姿のままなのである。現代とは歴史的には「第二次大戦勝者の理で動かされている時代」である。もし大戦敗戦国の国民がこの理をそのまま、そしてこのまま続けて受け入れるなら戦勝国にとって好都合である。しかし歪んだ国際関係を修正すべく、そして次の新たな国際的枠組みを求めて第三次大戦が勃発しかねない。

 今日小泉首相が靖国神社を参拝した。日本のマスコミはやれ中国が不快感を示している、やれ韓国との国交に支障がある、と騒ぎ立てるのだが、一体そういう君たちは本当に日本人なのか、平衡感覚はないのかと言いたくなる。

 A級戦犯?日本人の指導者だった人たちを、本当に連合国の主張するままにA級戦犯の一言で君たちは片付けられるのか。

 では、仮に日本が勝利していたら、広島と長崎に原爆を投下したトルーマン米国大統領、米空軍司令官は「人類に対する罪」としてA級戦犯になっていたとは思わないか。その彼らが米国の英雄墓地などに葬られていて歴代の大統領がそこに献花などをしたとき、私たち日本人は不快だ、やめるべきだと騒ぎ立てるべきだというのか。

 そんなことはない。某国にとっての敵もその国にとっては英雄である。そして時の指導者は民意や世論の後押しがなければ国民を戦争に駆り立てることはなかった。彼らは国益と信じて戦争を行ったのである。例えその意が果たせず戦勝国により戦犯の烙印を押されたからと言ってその国の国民や指導者がその人たちを弔うことに意義があろうはずがない。

 小泉首相が時の指導者として靖国神社を参拝し、戦争犠牲者、戦争時の指導者に対して哀悼の意をあらわすのは当然の行為である。

 戦争で多くの命が失われた。その人たちは子孫を残すことなく遺伝子を絶やした。その勇敢な人たち、不幸な人たちの礎のうえに、今の私たちの社会があるのではないか。死んでいった人たちを、ただ誤りだった、良くないことだったと批判するばかりなら、悪運強く、生き残り、彼らの屍のうえにぬくぬくと生きる輩はハイエナの子孫であるといわねばなるまい。

 私たちは第二次大戦の犠牲者を国籍を問わず、その功を讃え、そして哀悼の意を表し、彼らが築こうとした平和な社会、文化を築くことに尽力することが生き残った我々の使命であることを忘れてはならない。そのために今日の日を「敗戦記念日」と呼ぶべきなのだ。

 8月23日 追記: 小泉首相にとって日本の国連安保理入りが中国による反対工作によって阻まれたことへの恨みはあるだろう。私は当コラムでは筋論、本質論を展開したが、日本の安保理入りに当たってアジア諸国に影響力のある中国の取り込みが大事であることは誰の眼にも明らかである。次期首相は悲願の日本国国連安保理入りを最重要外交課題として、そのために何をすべきか、そして何をすべきでないのかをよく検討して行動してもらいたい。