2003年12月

96 「クリスマスイブ」


 今日は東南アジア唯一のキリスト教国フィリピンにとって最も大切な日、クリスマスイブである。家族が水入らずで集い、キリストの生誕を祝うとともに一家の繁栄と無病息災を祈る日である。我が家でも女房の親兄弟姉妹やその子供達が勢揃いしてレチョン(豚の丸焼き)など日頃出せない豪華料理に舌鼓を打った。
 ところでソーシャルウェザーステーションによるとフィリピン人の42%がサンタクロースの存在を信じているという驚くべきアンケート記事がマニラ新聞(12月24日付)に紹介されていた。最貧困層では48%が信じているとのこと。その数字の高さは信じがたいがフィリピン人がクリスマスに対し格別の思いを持っているのは確かであろう。
 こんな日に事もあろうにクリスマスツリーのイリュミネーションからの出火で焼け出された家がある。聞くところによると飾っていたツリーからの火は瞬く間に家全体に広がり、家族は4匹の犬と新車一台を持ち出すのがやっとだったとか。私の住んでいる住宅地内で我が家からわずか2分のところの話である。
 その数日前のレイテの土砂崩れ、洪水の被害では死者、行方不明者が250人に達している。年に一度のクリスマスイブを前にこのような悲劇が起こっているのである。
 けれどもフィリピンの人々は神やキリストを見捨てない。クリスマスの直前に自然災害で大勢の死者が出たり、イブの夜にツリーで火事になったり、時として神に見放されたり、裏切られることはあっても、彼らは決して神を見捨てない。
 人々の信心は多少の矛盾も飲み込んでしまうほど強いものなのだろう。無策のエストラダ元大統領になぜ貧困層が望みを託すのかわかるような気がしてきた。


95  「読書賛歌批判」


 林真理子原作の小説がNHK連続ドラマ「夢見る葡萄 ―本を読む女―」としてここマニラでも放映されていて、私もそのうちの何回かを見る機会を得た。このドラマに一貫して流れていたのは言うまでもなく「読書讃歌」である。

 以前、このコラムで書いた通り、父が読書を奨励していたこともあり、私は幼稚園の頃から自分を未知の世界にいざなってくれる童話に親しんでいた。良く言えば早熟、悪く言えばマセガキ。その頃からの私の考え方に変化がなければ、このドラマを違和感なく受け入れることができただろう。私にとって読書とは知識を豊潤にしてくれるだけでなく、他人の経験を追体験する機会を与え、かつ他人の頭で思考する能力を鍛錬してくれるものであった。その意味で有意義で価値ある行為であると信じている。そして、読書は私に自己陶酔と優越感をも与えてくれるものでもあった。私は読書好きな同級生を尊敬し、読書の習慣を持たぬ者を軽蔑した。スポーツがさほど得意でなかった自分には読書が一種、現実逃避の役目も果たした。いずれにしても小学、中学と、同級生が音楽や交遊に明け暮れる頃、私は読書に放課後の大半を消費した。

 大学では新聞配達や警備員、家庭教師に飲食店のお運びとアルバイトに多くの時間を割く一方で、好きな本を好きなだけ買い、手当たり次第に本を読み漁った。大学生活はそれで良いと思っていた。

 けれども大学・大学院を経て社会に出て、小さな会社を経営し、コミュニティー活動を主催するようになって感じる疑問は、私が読書に費やしたあの膨大な時間は今の私を支えるのにどの程度役に立ったかということである。私の場合、実社会では読書で得た知識はおろか、本の疑似体験などほとんど役に立たないのである。

 数年前、私が舌を巻くほどの多読の人物と知り合う機会があった。彼は著書こそないが、私以上に多読家、本の虫であり、それをひとしきり誇示する者であった。彼は読書の疑似体験による博識を能弁に披露するが、残念ながらそれを語る彼の横顔に何ら魅力はなく、その得意げな様子は浅薄で、傍からも気の毒なほどであった。その時、私は他人の経験をどれだけ語っても人を動かすことはできないのだと悟った。

 さて、もう一つの命題は、一体、読書とは林真理子の言うように本当に読む人の心を豊かにするだろうかということである。私は、その行為は自身を豊かにするかも知れないが、周りの皆を豊かにすることはないと思う。周りを豊かにするのは本に眼を落とし続ける私ではなく、友や家族来訪の気配に顔をあげ、微笑みかける私なのだ。

 では、読書の効用は他にあるだろうか。当たり前の話だが知識は知識でしかない。所詮は過去のデータである。また「物事の考え方」とは本を読んだからといって容易に獲得できるものではない。さらに、本を読むことで、本を書く一部の人々の頭で考える訓練はできるかも知れないが、本を書かない人の思考様式に近づくことはできないはずである。

 本を書く人とはどのような人間なのだろうか。もちろん、知を提供するからには著作者とは知識人と呼ばれる人々であろうが、大事なことは、彼らは全人口の中ではごく一握りの特殊な人々に過ぎないということである。またネガティブな例で申し訳ないが、前述の「本を読む女」とは林真理子自身の投影であろうが、私には、時々ブラウン管に映る林女史の姿はおせいじにも魅力ある女性には思えない。ただ非常に性格の屈折したバランス感覚に乏しい女性にみえるのである。

 それでも自分が本の編集者を職業としており、つきあう人々や顧客が著作家とか文人に限られるとか、あるいは彼らのような人種を研究することを職業としているのであれば、彼らの著作を読むことは大いに意義のあることであろう。しかし、著作家以外の人々と接するのに読書はどれだけ役に立つであろうか。

 何よりも、私は本をたくさん読んで多少とも魅力的人物になれたであろうか。

 講演会を主催してみると、お願いした講師のなかにはレストラン経営者やコンサルタントなどビジネスの一線ではご活躍されているものの、本は著されていない方もたくさんいらっしゃった。彼らが実践で得た知識や経験はこれまで読んだ本では得られなかった稀有な内容ではあったが、彼らが演壇に立たなければ、あるいは彼らに知り合う機会がなければ絶えて得られぬ貴重な知識であった。

 さらに、講演を聴いたとしても経験者ではない自分には講師の導き出した結論に達する可能性が少ないこと。また彼らがビジネスに成功したからとその教えを忠実に実践したつもりでも容易に成功できないこともよくわかった。要するに「読書をする」「講演を聴く」という受動的行為は実践にはおよそ役立たないのである。

 「学ぶ」は「真似る」がなまったものと聞いたことがある。「読む」「聴く」だけで真似るという訓練がなければ「書くこと」も「聴かせること」もできないではないか。

研究員志向の者ならいざ知らず、一般社会に出てゆく者が大学で学ぶべきは学問とか勉強そのものではなく勉強の仕方であろう。学ぶべきは知りたい知識に到達するための技術であって、知識そのものではない。また、そのとき得た知識は実社会ではほとんど役には立たない。

 そうであれば、若者にその志さえ高ければ、小中高大学時代の最も有効的な時間の使い方とは、読書はほどほどにし、大半を「友」との交遊に費やすべきではないかと考えるのである。そうしておけば、少なくともビジネスやコミュニティ活動に役立つ「人を動かす技術」、そして、現実逃避や疑似体験ではない本当の人生を堪能する技術を体得できるかも知れない。

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