2004年06月

113  それなりに幸せで・・


 日本も物質的には豊かだろうが、精神的には全然豊かさを感じない。賃金の割には生活費がべらぼうに高いので、仕事と金儲けに忙しくて友や家族をを思いやる暇はあまりない。あげくは「仕事が生きがい」と言い放つしか、救いはないのである。近隣国の貧困も道義的に気になるのだが、あまりにも忙しく構っていられない。そこでその世話は政府に任せっぱなし。

 人生の多くの時間を納税に費やし、その割に税の使い道や国家に対し文句を言わず、老後はとても心配。ということで、日本国民はあまりにも愚直過ぎる。そのストレスから安い発展途上国では小銭で女を漁るなど日本では許されない不埒なことをして内外から批判を受ける。子供がぐれたり、フリーターになってしまうのは本当は「納税が生きがい」の親たちを敬うことができないからだ。従って、あまり得することもなく、徳が高いとも言われない国民である。

 フィリピンは物質的には貧しいが、家族と友を思いやる気持ちと暇な時間がふんだんにある。けれどもあまりにも貧困ゆえ、他人に対しては嫉妬以外に殆ど関心を払うことができない。仕事がないから納税しないし、納めてないので税の行方にはあまり関心がない。その割りには暇なので大統領選びには特段の関心を持ち、一票の行使のために投票場には必ず出向く。

 他人のことはどうでもよい。それどころか自分と家族の幸せのためには多少「他人の犠牲」があってもやむをえないと考える。公共心は誰も育ててくれないし、社会保障制度は未整備でも仕方がないと諦めている。いよいよ社会保障の恩恵に預かりたければ、アメリカやカナダに移民すればいいのだと考え自国の制度的発展には無関心である。従って、あまり得することもなく、徳が高いとも言われない国民である。

 まあ、結局、『人は皆、それなりに幸せで、それなりに不幸なのだ』


:日本は国民に「納税が生きがい」といわせたい国家が、「仕事が生きがい」といわせるのに成功した国です。時間あたりの賃金は先進国中では最低の部類。低賃金でとにかく働き続けるしかない。だから取られた税金の行方を追う時間的余裕などありません。

 対価を求めずに多額の税金を払い続ける国民。

 政府にとって日本国民は愚直でとっても扱いやすい。どの国の政府も自国民が日本国民のようだったらいいなと思うはずです。

 ブッシュは言うでしょう、日本人は素晴らしい国民だと。 
 米国人は言うでしょう、日本は素晴らしい国家だと。

 でも米国人は日本人になりたいとは言わないでしょう。

 このせちがらい世の中、サラリーマンが「仕事が生きがい」というときには「納税が生きがい」、または「会社の肥やしになるのが生きがい」と言っているようなものだ。騙されてはいけない。自分の人生は自分のためのものだ。明治政府ができて人権が認められ、既に140年近く経過している。そろそろ目を覚まして、人生を自分のため、あるいはもっと高次な目的のために使いましょう。

112 瞑想と「内なる声」

 42歳になった私にもここ2週間ほど非常な迷いがあった。

 商業活動やコミュニティ活動、家族のこと。どれも一所懸命やってきたつもりだが、一体どの程度意義のある時間を重ねてきたか、それをどの観点に立って評価したらいいのか。これからもこの道を歩いていっていいものなのか。突然、さっぱりわからなくなってしまった。日比ビジネスクラブで『フィリピンへのパラダイム』などという講演集を世に送り出しておきながら情けないやら、申し訳のないやらで結構落ち込んでもいた。

 さて己の行動や行為の評価や判断の基準をどこにおくべきか。その問いに答えるために、書庫を漁ったところ、トーマスペインの『コモンセンス』が目に留まった。再読して改めてアメリカの独立に果たしたプロテスタント・クエーカー教徒の役割の大きさがわかった。横道にそれるが、アメリカの独立とは同時に黒人の社会的平等の確立をも意味したのであって、私はこれらのことを大学で学んだはずなのに本当のところ、理解していなかったのだということに気づいたのである。

 「人生を棒に振らないためにどうすれば良いか」
 「社会における自身の態度はどうあるべきか」

 私にとってこれらの問いは重要である。私はその解答を得たい一心で、思索や読書を重ねたのだが、結局、わが大学の恩師の帰依するクエーカーに立ち戻るしかなかった。

 私はクエーカーの素晴らしさを下記に見出す。

(1)教会や神父などの仲介業者を介さないで、神と直接の対話を試みる行為。
  そのため、一切勧誘行為を行わないこと。

(2)賛美歌など一切の礼拝付帯行為をなくして、 「内なる声」に耳を傾けるため、
  ただ思索と瞑想を重んじること。

(3)良心的兵役拒否など必要な政治的・社会的活動をするために最低限の徒党
  を組むことの必要性は排除しない。しかし、その集会は他と異なり単なる懇親
  や示威を目的としたものではないこと。

 おそらくその厳しい態度と孤独はフィリピン人の大らかな性格には馴染まないと思うし、世界でも少数派、日本ではわずか250名くらいしかその帰依を表明していないらしい。

 しかし、少数ながら力持ちであることには間違いない。

 私は人間の作り出した宗教というものの不完全さをよくわかっているつもりだから、おそらく帰依することはないだろうが、私の人生に於ける態度とはこのような「クウェーカー的」であるべきとの結論を得た。

 そこで、クエーカーにあやかり、「早起鳥の会」なるものをこしらえ、毎朝朝食をしながら友と語り合うか、誰も来なければ瞑想をすることにした。してみると「瞑想」とは特段の道具立てをせずともいつでもどこでもできる便利なものだと気づいた。けれども同時に「独りよがり」の弊に陥らないために、他人との対話もやはり必要である。

 私たちの人生は所詮は星屑以下のもので大したことはない。
けれども一方でひとりの人生は重く意義深いものでもある。

 故郷を離れ、母国を離れ、大多数の生き方とは違った道を歩いてきた。ひととの違いを意識して生きてきたからこそ、自分の生の質と意義については興味を持たざるを得ない。

 今は、日常に埋没し誤った道を歩まないように、日に何度も「思索」して「内なる声」に耳を傾け、我が身と行動を顧みるとともに、全てから解き放たれるための「瞑想」の時間をもつようにしている。

111 フィリピンと不正

 「長かった選挙戦」という言葉があるが、フィリピンの「長かった開票戦」が終了し、公式にグロリア・マカパガル・アロヨ氏のフィリピン共和国第十四代大統領当選が確定した。

 以前より、「接戦になればアロヨ勝利は120%間違いない」と私は断言していたが、それは「フィリピンの政権は必ず票の不正操作をする」という確信に基づくものであって、接戦でポーが勝つなどということは「政権が不正を働かなかった」ことになるのであって、そんなことは絶対にありえないからだ。

 他の国民は知らないが、フィリピン人は選挙で必ず不正を働くのである。

 先月の日比ビジネスクラブの講演会で、フレッド吉野氏(デ・ラサール大学教授)はフィリピン人学者の「フィリピン人は皆うそつきである。アロヨ大統領は絶対に出馬しないと言っていた。けれども出馬した。大統領からしてうそつきである。だからフィリピン人は皆うそつきである」というコメントを紹介していた。

 うそつきへの倫理観の欠如。これこそがフィリピンにはびこる癌である。

 私はフィリピン沖縄県人会に属していて、会員の90%以上が沖縄の血を引いたフィリピン国籍者であり、そのなかから代議士など出てフィリピンを引っ張っていってほしいと常々考えていた。けれども誰一人として政治家志向の者が登場してこないことから、彼らは実は「腰抜け」ではないかとも考えていた。

 しかし、フィリピン政治のあまりの不潔さ、危険さを鑑みるに、この国では政治家というもの、まともな人間のやるべきものではないと考える。政治家になれば人生を棒に振る可能性が高い。
 「人生は棒に振ってもよい。自分の人生はフィリピン国民のために捧げるのだ」という強烈な信念と犠牲的精神のない限り、政治家だけにはなるべきではないと今は思っている。

 さて、今回は対立候補となった映画俳優のフェルナンド・ポー・ジュニア氏も「出馬はありえない」という前言を翻して出馬した。そして敗れて負けを認めようとせず、アロヨ陣営を口汚く罵っている。米国ではゴア大統領候補がブッシュの票を20万票も上回りながら制度により敗北し、最終的にはブッシュと握手を交わし、敗けを認めたのとは対照的である。

 では仮にポーが政権与党の立場にあって接戦になった場合、不正をしなかっただろうか?否、絶対に不正をしていたはずである。それは断言できる。「政権は選挙で必ず不正を働く」のである。

 ポー氏は今、後悔の極みだろう。大統領選に出馬さえしなければ「映画王」としての名誉を汚さずに立派な生涯を終えることができた。エストラダやイメルダに踊らされなければ借金の山を築かずに済んだ。もう大統領選に出馬することはないだろう。彼は「覚悟なく」悪臭放つ政治に関与しようとして人生を棒に振ったのである。

 大統領選に勝利するためには少なくとも10億ペソ(約20億円)の資金が必要だとされる。それでなくとも国民直接選挙ということで、票をまとめるため全国津々浦々の集票マシンの末端にあるバランガイキャップテン(最低行政区長)までお金をばらなかなくてはならない。加えて統一選挙であるために、自陣営の副大統領候補から、上下院議員、州知事、市町村長、市町村議員候補にまで選挙資金を渡さなくてはならないのだ。

 この選挙システムには莫大なお金が掛かり、落選すると借金が返せないので勝利のために殺人を含めてあらゆる不正を働らかざるを得ない。また例え勝利したとしても、今度は汚職の限りを尽くさないと借金返済ができないということで、このシステムは汚職、不正蓄財、殺人、票の不正操作など全ての犯罪を誘発する仕組みになっている。

 ではその弊を少しでも取り除くために何か方策はないのか。私の意見としては:

 ?大統領選は直接選挙でではなくアメリカ式の選挙人による間接選挙とすること。
   これにより、衆愚政治の弊を多少とも緩和するとともに、最終票集計の混乱を
   回避できる。もちろん、フィリピンの政治風土にあった制度で行うこと。

 ?副大統領は大統領の任命とすること。
   これにより、副大統領選挙の費用がゼロになる。

 ?大統領選挙は上下院議員選挙や地方首長選挙と切り離して、別の年に行うこと。
   これにより、大統領候補は必ずしも他の国政・地方選挙候補者の資金的面倒を
   みなくても良くなる。

  そうすれば今のように莫大な金の掛かる選挙ではなくなり、新大統領による汚職も「軽減」されるに違いない。

 最近、出資法違反で逮捕された元北海道沖縄開発庁長官稲垣実男氏(愛知県)の「悪いとは知っていたが、もうひと花咲かせたかった」というコメントがフィリピン国民に笑い飛ばされる日がいつか来ることを願うものである。

110 非日常と禁欲のススメ 

 実は「非日常のススメ」を初めて私が耳にしたのは、大学時代、恩師である岡野加穂留先生からである。

 岡野ゼミのOB会では、岡野教授が飲酒なしのパーティーを強行し、OBらから大不評をかっていた。ちなみに教授はキリスト教プロテスタントのクエーカー教徒であり、反対OBの意見は「ゼミ生にはともかく、信者でない社会人OBに禁酒を強要するのはお門違いだ」というものだった。私は大学3年生で、OB会担当ゼミ生として教授とOB、両者の主張に挟まれ困惑させられてはいたが、自分はゼミ生の時分から社会人になって、そして今日まで、一貫してOBの「禁酒反対」に同意見だった。酒なしの人生なんて無意味だ、と思っていた。

 さて、岡野教授はクエーカーを自認する前はウィスキー丸ごと一本を飲みほすほどの大酒呑みだったそうだ。しかし、「例えば好きなことの一つをやめる(=禁欲する)ことにより、日常のなかに非日常(=緊張)を意図して作り出し、人間の本来持てる力(=人間力)が漲り、価値ある何か(立派な)事をなすことができる」とのことで、宗教的立場から、そし学究者としての実際的な立場から禁酒を実行し皆に励行していた。

 岡野教授の唱えた「禁酒励行」。そしてOBの「非信者への禁酒強要反対」。その頃のOB会の会長は50代後半の「飲酒励行」の方で、私もそのOB会長の家にしばしば呼ばれては大酒を呑み、教授を嘲笑い、禁酒励行を否定した。

 しかし、今日、たった今から私は岡野教授同様、「禁酒励行」に同意見となった。教授のメッセージは、非信者であるゼミOBにも非日常と禁欲を励行し、OB全員がそれぞれおかれた分野で他人のできない立派な事を成し遂げてほしい、ということだったのだろう。それをゼミOB会という小さな共同体で実践してみたかった。しかし、岡野教授の願いと希望は裏切られ、結局、私が卒業して数年後のOB会ではジュースに代わってビールによる乾杯が日常化した。

 私が到達した結論というのは、「人間はできるだけ理性に従って行動しなくてはならない。理性だけの生活は傍からみると確かに味気なく空疎なものに思えるかもしれない。しかし、一握りの誰かでもそれを実行しなくては我らに栄光はない。それぞれの個人が人類の栄光とは何か、人類の栄光につながる事業とは何かを考え抜き、それをやり遂げることに全力を傾けるべき」ということである。

 それをクリアな頭脳で考え実行するために、ノン・アルコールは奨励されても良かろう。

 ところで、少林寺拳法には「酔拳」なるものが存在する。物好きのことを「酔狂」という。では「酔考」、つまり酔った頭で考えることがあっても良いのではないか、それなら好きな酒をやめなくてもいいし、誰にでもできるのではないか。目下、そういう腑抜けた考えにも憑りつかれているのである。(岡野先生に乗りうつった神様の声: 「ええい、未熟者!お前には悟りというものがないのか!」)。ということでどこまでも不肖の弟子であり、また破門されてしまうのであった。

109 日常のなかに非日常を

 私のように毎日の労働時間が16時間にも及ぶとなると日常(=日々の所業)に埋没し、己を顧みる機会が少なくなる。これはたいへんなことだ。

 人生を有意義に生きるためには「常識」にではなく、「良識」に従って行動しなくてはならない。辞書によると「常識」とは「普通一般人が持ち、また、持っている標準知力」のことであり、「良識」とは「社会人として健全な判断力」なのだそうだ。日常から私たちは常識を学ぶことはできるが良識を学ぶことはできない。良識は我に帰るとき、つまり反省してはじめてそれに気づき、創造されるものである。

 非日常的行為や空間は私たちに良識を呼び起こしてくれる。非日常的空間にはお茶や音楽があり、非日常的行為としては週に一度の教会への参拝や読書、座禅などがあろう。また他人へ尽くす行為=奉仕活動もある。スポーツも非日常的行為ではあるが「勝負」や「技術の鍛錬」に神経を集中するために、反省のための行為に相応しいものではない。

 私は日常埋没型の人生を送りたくない。「金儲けと他人より豊かな生活だけが人生だったら、私はビルから飛び降りて死ぬほうがいい」と常々思っている。私にとって人生とは意識して生きるべきものであり、惰性で生きるべきものではない。

 私にとって有意義な人生とは良識に従って生きる人生のことだ。その良識を培うためには非日常的所作や行為、空間が必要だが、今の私の「日常」にはそんな「非日常」が存在しない。それは大いに問題であり、早く改善しなければ人生を棒に振ってしまう。
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