2001年6月20日(日)
皆さんは読書の意義についてどのようにお考えですか。もちろん、知識の獲得こそ、第一の目的でしょう。けれども、私は、あるとき、本を読むこととは即ち: 「他人の頭で、物事を考えること」であると気づきました。ある著者の文章を辿ることとは即ち、その著者の脳が組み立てる論理の筋道を辿ることに他なりません。読書量が多くなれば、それだけ、たくさんの他人の頭で物事を考える訓練をすることになります。
同じく、他人の演説を聴くこと。映画や音楽を鑑賞すること。これらすべて他人の頭の論理を辿る訓練です。スポーツは自分の肉体の声に耳を傾けることであり、四季のうつろいを感じること、自然を愛でること、これもまた、自然の論理、つまり摂理を追う働きです。結局、五感を働かせて、何かを吸収することとは、「自」でない「他」の論理や摂理に身を任せ、委ねる働きのことであったわけです。
その意味で、例えば、機械ばかりを相手にしているとその機械と同じような頭脳構造になります。プログラマーが他人と口をきかないで、毎日プログラム言語ばかりと格闘していると、パソコンのような杓子定規な論理思考にもなりかねません。若年層による動機不明の殺人事件が、社会問題化しています。彼らの多くが部屋に閉じこもりがち、友人が少ない、TVゲームなどひとり遊びに興じがちなど、ごく限られた個体や世界における閉塞的論理と摂理のなかで生活をしている例が多いと報告されております。
私たちは一人で生きているのでなく、他の多くの人と協働して、「社会」なるものを構成して生きております。また、人間は自然界の摂理のなかで生きております。自然界はひとつの大きな掟により、機能しておりますが、人間社会の論理は、その構成員の性格や社会によって異なり、さらに、時間とともに変遷してゆきます。私たちは、できるだけ、多くの、特に異質の人々とその意見に触れ、時間を共有し、自然に接する機会を多くもつことにより、他人を思いやることを覚え、人格の幅を広げることができるようになるのです。
皆さんは読書の意義についてどのようにお考えですか。もちろん、知識の獲得こそ、第一の目的でしょう。けれども、私は、あるとき、本を読むこととは即ち: 「他人の頭で、物事を考えること」であると気づきました。ある著者の文章を辿ることとは即ち、その著者の脳が組み立てる論理の筋道を辿ることに他なりません。読書量が多くなれば、それだけ、たくさんの他人の頭で物事を考える訓練をすることになります。
同じく、他人の演説を聴くこと。映画や音楽を鑑賞すること。これらすべて他人の頭の論理を辿る訓練です。スポーツは自分の肉体の声に耳を傾けることであり、四季のうつろいを感じること、自然を愛でること、これもまた、自然の論理、つまり摂理を追う働きです。結局、五感を働かせて、何かを吸収することとは、「自」でない「他」の論理や摂理に身を任せ、委ねる働きのことであったわけです。
その意味で、例えば、機械ばかりを相手にしているとその機械と同じような頭脳構造になります。プログラマーが他人と口をきかないで、毎日プログラム言語ばかりと格闘していると、パソコンのような杓子定規な論理思考にもなりかねません。若年層による動機不明の殺人事件が、社会問題化しています。彼らの多くが部屋に閉じこもりがち、友人が少ない、TVゲームなどひとり遊びに興じがちなど、ごく限られた個体や世界における閉塞的論理と摂理のなかで生活をしている例が多いと報告されております。
私たちは一人で生きているのでなく、他の多くの人と協働して、「社会」なるものを構成して生きております。また、人間は自然界の摂理のなかで生きております。自然界はひとつの大きな掟により、機能しておりますが、人間社会の論理は、その構成員の性格や社会によって異なり、さらに、時間とともに変遷してゆきます。私たちは、できるだけ、多くの、特に異質の人々とその意見に触れ、時間を共有し、自然に接する機会を多くもつことにより、他人を思いやることを覚え、人格の幅を広げることができるようになるのです。