<一般的フィリピン人は豊かだと感じていない>
精神的豊かさを論ずる前に、フィリピン人の若者にあって日本人の若者にないもので注目すべきは「教会への礼拝」だと思います。これは記憶に留めておいてください。
さて、一般的フィリピン人は精神的にも物質的にもそれほど豊かであると感じていないと思います。フィリピン人は常に金欠感があります。それはそうでしょう。彼らは日本人以上に、購買欲が盛んです。もし、日本人のようにクレジットカードがたくさん作れれば、多重債務者が続出するはずです。ただ、たくさん収入が得られない、買いたくても買えない、旅行に出掛けたくても金がなく出掛けられない。そんなところでしょう。
時間はあるけれど、金がない。金はほしくても、高収入のために最大限の努力をしない。かなり努力をしても高収入が得られないから、努力をしなくなったのかも知れません。親がそうですから、子もしかりというところでしょう。そういう意味で、努力をすればそれなりに高収入にありつける日本と違うのかも知れません。フィリピン人の心の平静は、諦観(あきらめ)から来ているといえないでしょうか。彼らには何もしないこと以外に選択肢がないのです。
さらに、物質的には豊かでなくても、金の掛からない時間つぶしはいくらでもあります。まず、日曜日は教会にいく。そして、誰かの誕生会、結婚式に出席する。誰かお金のある親戚や兄弟にたかってリゾートに出掛ける。小さい兄弟、親戚の子の子守りをする。祖母や祖父の介護をする。お使いをする、など、など。
フィリピンでは国民の80%がカトリックですが、彼らが傾倒するカトリックでは、仕事に努力を重ねることを美徳としません。何かが欲しければ、祈りなさい。教会にお布施をするなど、徳を積みなさいということです。この辺り、スペイン支配当時に積極的に支配を円滑に行うために用いられたカトリックの従属主義が、フィリピン人の深層心理に織り込まれて、今でも、「他力本願」と「現実逃避」に働いているような気がします。
<勤勉を美徳としないフィリピン人>
日本人の場合、「勤勉」は文化といえるのかも知れませんが、夫が一家の稼ぎ頭として、金を稼いでくる。そのためにあらゆる犠牲を厭わない。家族と過ごす時間を惜しみ、社内における昇進に全力を尽すなど、男性は「労働」と「自己実現」を重ねることにより、若いとき、あるいは老いても社内勝ち組はそのことに矛盾をあまり感じない、年をとって、あるいは昇進負け組となって、その方程式が通用しなくなると、とたん、矛盾を感じるようになるということでしょう。
フィリピンでは「勤勉」はさほどの美徳ではない。だから「おしん」がヒットしなかった。カトリックの教えでは「欲せよ。さらば与えられん」といいますが、努力の末に勝ち取られるものよりも、ある朝、眼が覚めたらいきなりお金持ちになっていた、というシンデレラ・ストーリーが好きなようです。
<あなたは幸福ですか>
ある機関が毎年行っている「幸福感調査」で「あなたは幸福ですか」の問いに、フィリピンでは、9割以上がYES。日本ではYESは7割以下という結果が出ていたと思います。それは質問の仕方だと思います。あなたはクルマを持っていますか。パソコンを持っていますか。家を持っていますか。給料は十分ですか。仕事がないため、家族兄弟が海外に出稼ぎに行ってバラバラではありませんか。それでもあなたは幸福ですか。と聞かれれば、にわかにYESとは答えられなくなると思います。
さらにいえば、幸福感調査のなかで、「今度生まれる時はフィリピン人に生まれたいですか」についてはNOが多いでしょう。私のフィリピンの親戚に聞いてみると、再度フィリピン人に生まれたい、というのも何人かはおりましたが、アメリカ人、イタリア人、日本人と様々でした。明らかにフィリピン人として満足していない人が大勢いるのです。フィリピンが貧乏なこと、夢がないこと。そうです。フィリピン人には「海外渡航の自由」もありません。
フィリピンの人はあまり思慮深くない。反省をしない、間違いを犯しても、教会で懺悔すればよい。考えるのは教会の神父の仕事だと思っている。それくらい能天気な人たちの「幸福感」は日本人にはあまり参考にならないかも知れない。
一方、幸福感を感じないはずの日本人に、では、フィリピン国籍に変更したいかと聞くと、これはほぼ100%がNOだと思います。そして、次に生まれるときも日本人に生まれたいと答える人が多いと思います。日本に満足していないのに、日本人に生まれたことをよしとすることは注目に値すると思います。
<日本で精神的豊かさを実感するには>
そうすると、私を含めてフィリピンでエンジョイしている日本人は、日本国籍者としての自由度をもって、日本にいるのと同じだけの収入を得ながら、物価と使用人人件費の比較的安いフィリピンに住んでいるからある程度の精神的、物質的満足を得ているのだと思います。
日本はかなりのものを犠牲にして、それなりの経済成長を成し遂げたわけですが、これからは精神的な豊かさを実感するための措置をとるべきでしょう。個人レベルでは、余計なモノを買うためにお金を使わない。余計なお金を稼ぐために貴重な時間を割かない。価値あるものは、コミュニティー活動、地域活動であり、親子親族の絆である、という教育をすることでしょう。国としては、ビザの制限を緩和して、安価な海外労働力を輸入することです。特に公共料金を下げるために海外労働力を使うことです。発展途上国の貧困に乗じて、楽をしようというのは、日本人の平等意識とは相容れないかもしれません。でも、日本人には薄給でも、彼らには大きなお金。倹約・節制して貯めたお金は彼らの国に戻れば家を買えるほどです。それは同情に値しないと思います。次に都市計画の中では、事務所面積に対して、必ず一定割合の住居供給を義務づけ、事務所と住居の距離を近づけて、通勤時間を節約すること。長距離通勤ができなくなるよう電車の通勤割引を段階的に撤廃すること。あまりにも狭い住宅開発を避けるために、住宅の最低床面積の設定。容積率の緩和。日照権には逆に税金を掛けて、住宅供給を促進すること。住宅売買にかかる移転税などを緩和すること。都心に米国並みの広い住居が確保できる努力をすることだと思います。
いずれにしても、日本は「工業化後(脱工業化ではない)の社会」に突入して久しいのですが、「強力なリーダーシップをもってしても解決できない無理難題ばかり」とあきらめのムードが国民に漂っているように思えます。やはり、タブーを廃し、果敢に改革に挑戦する勇気と決断力が市民の一人ひとりに求められているといえると思います。
精神的豊かさを論ずる前に、フィリピン人の若者にあって日本人の若者にないもので注目すべきは「教会への礼拝」だと思います。これは記憶に留めておいてください。
さて、一般的フィリピン人は精神的にも物質的にもそれほど豊かであると感じていないと思います。フィリピン人は常に金欠感があります。それはそうでしょう。彼らは日本人以上に、購買欲が盛んです。もし、日本人のようにクレジットカードがたくさん作れれば、多重債務者が続出するはずです。ただ、たくさん収入が得られない、買いたくても買えない、旅行に出掛けたくても金がなく出掛けられない。そんなところでしょう。
時間はあるけれど、金がない。金はほしくても、高収入のために最大限の努力をしない。かなり努力をしても高収入が得られないから、努力をしなくなったのかも知れません。親がそうですから、子もしかりというところでしょう。そういう意味で、努力をすればそれなりに高収入にありつける日本と違うのかも知れません。フィリピン人の心の平静は、諦観(あきらめ)から来ているといえないでしょうか。彼らには何もしないこと以外に選択肢がないのです。
さらに、物質的には豊かでなくても、金の掛からない時間つぶしはいくらでもあります。まず、日曜日は教会にいく。そして、誰かの誕生会、結婚式に出席する。誰かお金のある親戚や兄弟にたかってリゾートに出掛ける。小さい兄弟、親戚の子の子守りをする。祖母や祖父の介護をする。お使いをする、など、など。
フィリピンでは国民の80%がカトリックですが、彼らが傾倒するカトリックでは、仕事に努力を重ねることを美徳としません。何かが欲しければ、祈りなさい。教会にお布施をするなど、徳を積みなさいということです。この辺り、スペイン支配当時に積極的に支配を円滑に行うために用いられたカトリックの従属主義が、フィリピン人の深層心理に織り込まれて、今でも、「他力本願」と「現実逃避」に働いているような気がします。
<勤勉を美徳としないフィリピン人>
日本人の場合、「勤勉」は文化といえるのかも知れませんが、夫が一家の稼ぎ頭として、金を稼いでくる。そのためにあらゆる犠牲を厭わない。家族と過ごす時間を惜しみ、社内における昇進に全力を尽すなど、男性は「労働」と「自己実現」を重ねることにより、若いとき、あるいは老いても社内勝ち組はそのことに矛盾をあまり感じない、年をとって、あるいは昇進負け組となって、その方程式が通用しなくなると、とたん、矛盾を感じるようになるということでしょう。
フィリピンでは「勤勉」はさほどの美徳ではない。だから「おしん」がヒットしなかった。カトリックの教えでは「欲せよ。さらば与えられん」といいますが、努力の末に勝ち取られるものよりも、ある朝、眼が覚めたらいきなりお金持ちになっていた、というシンデレラ・ストーリーが好きなようです。
<あなたは幸福ですか>
ある機関が毎年行っている「幸福感調査」で「あなたは幸福ですか」の問いに、フィリピンでは、9割以上がYES。日本ではYESは7割以下という結果が出ていたと思います。それは質問の仕方だと思います。あなたはクルマを持っていますか。パソコンを持っていますか。家を持っていますか。給料は十分ですか。仕事がないため、家族兄弟が海外に出稼ぎに行ってバラバラではありませんか。それでもあなたは幸福ですか。と聞かれれば、にわかにYESとは答えられなくなると思います。
さらにいえば、幸福感調査のなかで、「今度生まれる時はフィリピン人に生まれたいですか」についてはNOが多いでしょう。私のフィリピンの親戚に聞いてみると、再度フィリピン人に生まれたい、というのも何人かはおりましたが、アメリカ人、イタリア人、日本人と様々でした。明らかにフィリピン人として満足していない人が大勢いるのです。フィリピンが貧乏なこと、夢がないこと。そうです。フィリピン人には「海外渡航の自由」もありません。
フィリピンの人はあまり思慮深くない。反省をしない、間違いを犯しても、教会で懺悔すればよい。考えるのは教会の神父の仕事だと思っている。それくらい能天気な人たちの「幸福感」は日本人にはあまり参考にならないかも知れない。
一方、幸福感を感じないはずの日本人に、では、フィリピン国籍に変更したいかと聞くと、これはほぼ100%がNOだと思います。そして、次に生まれるときも日本人に生まれたいと答える人が多いと思います。日本に満足していないのに、日本人に生まれたことをよしとすることは注目に値すると思います。
<日本で精神的豊かさを実感するには>
そうすると、私を含めてフィリピンでエンジョイしている日本人は、日本国籍者としての自由度をもって、日本にいるのと同じだけの収入を得ながら、物価と使用人人件費の比較的安いフィリピンに住んでいるからある程度の精神的、物質的満足を得ているのだと思います。
日本はかなりのものを犠牲にして、それなりの経済成長を成し遂げたわけですが、これからは精神的な豊かさを実感するための措置をとるべきでしょう。個人レベルでは、余計なモノを買うためにお金を使わない。余計なお金を稼ぐために貴重な時間を割かない。価値あるものは、コミュニティー活動、地域活動であり、親子親族の絆である、という教育をすることでしょう。国としては、ビザの制限を緩和して、安価な海外労働力を輸入することです。特に公共料金を下げるために海外労働力を使うことです。発展途上国の貧困に乗じて、楽をしようというのは、日本人の平等意識とは相容れないかもしれません。でも、日本人には薄給でも、彼らには大きなお金。倹約・節制して貯めたお金は彼らの国に戻れば家を買えるほどです。それは同情に値しないと思います。次に都市計画の中では、事務所面積に対して、必ず一定割合の住居供給を義務づけ、事務所と住居の距離を近づけて、通勤時間を節約すること。長距離通勤ができなくなるよう電車の通勤割引を段階的に撤廃すること。あまりにも狭い住宅開発を避けるために、住宅の最低床面積の設定。容積率の緩和。日照権には逆に税金を掛けて、住宅供給を促進すること。住宅売買にかかる移転税などを緩和すること。都心に米国並みの広い住居が確保できる努力をすることだと思います。
いずれにしても、日本は「工業化後(脱工業化ではない)の社会」に突入して久しいのですが、「強力なリーダーシップをもってしても解決できない無理難題ばかり」とあきらめのムードが国民に漂っているように思えます。やはり、タブーを廃し、果敢に改革に挑戦する勇気と決断力が市民の一人ひとりに求められているといえると思います。