2003年05月

90-2 「物質的豊かさ」と「精神的豊かさ」-日比比較?

<一般的フィリピン人は豊かだと感じていない>
 精神的豊かさを論ずる前に、フィリピン人の若者にあって日本人の若者にないもので注目すべきは「教会への礼拝」だと思います。これは記憶に留めておいてください。
 さて、一般的フィリピン人は精神的にも物質的にもそれほど豊かであると感じていないと思います。フィリピン人は常に金欠感があります。それはそうでしょう。彼らは日本人以上に、購買欲が盛んです。もし、日本人のようにクレジットカードがたくさん作れれば、多重債務者が続出するはずです。ただ、たくさん収入が得られない、買いたくても買えない、旅行に出掛けたくても金がなく出掛けられない。そんなところでしょう。
 時間はあるけれど、金がない。金はほしくても、高収入のために最大限の努力をしない。かなり努力をしても高収入が得られないから、努力をしなくなったのかも知れません。親がそうですから、子もしかりというところでしょう。そういう意味で、努力をすればそれなりに高収入にありつける日本と違うのかも知れません。フィリピン人の心の平静は、諦観(あきらめ)から来ているといえないでしょうか。彼らには何もしないこと以外に選択肢がないのです。
 さらに、物質的には豊かでなくても、金の掛からない時間つぶしはいくらでもあります。まず、日曜日は教会にいく。そして、誰かの誕生会、結婚式に出席する。誰かお金のある親戚や兄弟にたかってリゾートに出掛ける。小さい兄弟、親戚の子の子守りをする。祖母や祖父の介護をする。お使いをする、など、など。
 フィリピンでは国民の80%がカトリックですが、彼らが傾倒するカトリックでは、仕事に努力を重ねることを美徳としません。何かが欲しければ、祈りなさい。教会にお布施をするなど、徳を積みなさいということです。この辺り、スペイン支配当時に積極的に支配を円滑に行うために用いられたカトリックの従属主義が、フィリピン人の深層心理に織り込まれて、今でも、「他力本願」と「現実逃避」に働いているような気がします。

<勤勉を美徳としないフィリピン人>
 日本人の場合、「勤勉」は文化といえるのかも知れませんが、夫が一家の稼ぎ頭として、金を稼いでくる。そのためにあらゆる犠牲を厭わない。家族と過ごす時間を惜しみ、社内における昇進に全力を尽すなど、男性は「労働」と「自己実現」を重ねることにより、若いとき、あるいは老いても社内勝ち組はそのことに矛盾をあまり感じない、年をとって、あるいは昇進負け組となって、その方程式が通用しなくなると、とたん、矛盾を感じるようになるということでしょう。
 フィリピンでは「勤勉」はさほどの美徳ではない。だから「おしん」がヒットしなかった。カトリックの教えでは「欲せよ。さらば与えられん」といいますが、努力の末に勝ち取られるものよりも、ある朝、眼が覚めたらいきなりお金持ちになっていた、というシンデレラ・ストーリーが好きなようです。

<あなたは幸福ですか>

 ある機関が毎年行っている「幸福感調査」で「あなたは幸福ですか」の問いに、フィリピンでは、9割以上がYES。日本ではYESは7割以下という結果が出ていたと思います。それは質問の仕方だと思います。あなたはクルマを持っていますか。パソコンを持っていますか。家を持っていますか。給料は十分ですか。仕事がないため、家族兄弟が海外に出稼ぎに行ってバラバラではありませんか。それでもあなたは幸福ですか。と聞かれれば、にわかにYESとは答えられなくなると思います。
 さらにいえば、幸福感調査のなかで、「今度生まれる時はフィリピン人に生まれたいですか」についてはNOが多いでしょう。私のフィリピンの親戚に聞いてみると、再度フィリピン人に生まれたい、というのも何人かはおりましたが、アメリカ人、イタリア人、日本人と様々でした。明らかにフィリピン人として満足していない人が大勢いるのです。フィリピンが貧乏なこと、夢がないこと。そうです。フィリピン人には「海外渡航の自由」もありません。
 フィリピンの人はあまり思慮深くない。反省をしない、間違いを犯しても、教会で懺悔すればよい。考えるのは教会の神父の仕事だと思っている。それくらい能天気な人たちの「幸福感」は日本人にはあまり参考にならないかも知れない。
一方、幸福感を感じないはずの日本人に、では、フィリピン国籍に変更したいかと聞くと、これはほぼ100%がNOだと思います。そして、次に生まれるときも日本人に生まれたいと答える人が多いと思います。日本に満足していないのに、日本人に生まれたことをよしとすることは注目に値すると思います。

<日本で精神的豊かさを実感するには>
 そうすると、私を含めてフィリピンでエンジョイしている日本人は、日本国籍者としての自由度をもって、日本にいるのと同じだけの収入を得ながら、物価と使用人人件費の比較的安いフィリピンに住んでいるからある程度の精神的、物質的満足を得ているのだと思います。
 日本はかなりのものを犠牲にして、それなりの経済成長を成し遂げたわけですが、これからは精神的な豊かさを実感するための措置をとるべきでしょう。個人レベルでは、余計なモノを買うためにお金を使わない。余計なお金を稼ぐために貴重な時間を割かない。価値あるものは、コミュニティー活動、地域活動であり、親子親族の絆である、という教育をすることでしょう。国としては、ビザの制限を緩和して、安価な海外労働力を輸入することです。特に公共料金を下げるために海外労働力を使うことです。発展途上国の貧困に乗じて、楽をしようというのは、日本人の平等意識とは相容れないかもしれません。でも、日本人には薄給でも、彼らには大きなお金。倹約・節制して貯めたお金は彼らの国に戻れば家を買えるほどです。それは同情に値しないと思います。次に都市計画の中では、事務所面積に対して、必ず一定割合の住居供給を義務づけ、事務所と住居の距離を近づけて、通勤時間を節約すること。長距離通勤ができなくなるよう電車の通勤割引を段階的に撤廃すること。あまりにも狭い住宅開発を避けるために、住宅の最低床面積の設定。容積率の緩和。日照権には逆に税金を掛けて、住宅供給を促進すること。住宅売買にかかる移転税などを緩和すること。都心に米国並みの広い住居が確保できる努力をすることだと思います。
 いずれにしても、日本は「工業化後(脱工業化ではない)の社会」に突入して久しいのですが、「強力なリーダーシップをもってしても解決できない無理難題ばかり」とあきらめのムードが国民に漂っているように思えます。やはり、タブーを廃し、果敢に改革に挑戦する勇気と決断力が市民の一人ひとりに求められているといえると思います。

90-1 物質的豊かさ」と「精神的豊かさ」-日比比較?


 ルポライターの戸田智弘さん(海外生活ネット)からの宿題に対する答えです。長文になってしまいました。

<物質的豊かさとは>

 精神的豊かさを論ずる前に、物質的豊かさについて考えてみたいと思います。
物質的豊かさを感じる人というのは、物質欲(物欲=購買欲)と収入(購買力)が釣り合っている人でしょう。購買欲が大きければ大きいほど、大きな収入(購買力)が必要になる。けれども、たいていの場合、購買欲にくらべて購入力=収入は小さいもの。多くの人がもっと収入を得たいという願望をもつのはそのためです。よって、平均的日本人といえども物質的にも満ち足りていない、つまり物質的にも豊かさを感じていないと思います。

<物質的豊かさとは相対的評価>
 日本が物質的に豊かであるというのは、発展途上国、中進国と比べての相対的な評価に過ぎません。同様に物質的に豊かさを感じるか、感じないかという質問に対して、皆はおそらく隣国、隣人、知人、親族などと比較して答えているのではないでしょうか。
 絶対的評価として、物質的に豊かであるとは、購入欲が購買力に比して小さい状態であり、新たにモノを買わなくても満足している状態をいうのだと思います。
 物質欲を小さくしない限り、物質欲は満たされない。物質的豊かさは実感できない。結論として、平均的日本人は物質的にも豊かではない。それが相対的なものである以上、物質的豊かさとは追いかけども追いつけない逃げ水のようなものではないでしょうか。

<日本では工業製品が安く、人件費がおそろしく高い>
 日本は他国に比して、物質的に豊かで、工業製品が安く買える国です。デパートに行ってみると、工業製品は、採算に合わない一部のローテク製品を別にすれば、ほとんどのものが日本製で手に入ります。そんな国は世界では米国と日本くらいだといわれています。技術力を高め、安い原材料を求め、機械化を推進し続けた結果得られたものです。米国と異なるのは、海外労働者の流入を制限し続けた点です。その結果、機械が大量生産した製品は安く買えるが、人間の手間の掛かるサービスはおそろしく値段の高いといういびつな経済の国になってしまった。人件費の高い日本で、唯一、無報酬で提供され続けたサービスが、妻による家事・育児、そして親の介護ではないでしょうか。
 日本では少子化により、親の介護の負担が個人には重荷になってきたため、介護法ができ、それら対価を計算する方向にありますが、その重労働の割に正当な評価が与えられていない。家事・育児・介護。そのために女性の社会進出の機会は著しく制限されてきたと思います。この辺りも米国にない状況でしょう。

<物質的豊かさに相反する劣悪な住宅環境と高物価>
 さらに、日本が物質的に豊かであると思えないのは、劣悪な住宅環境からです。こちらもどうしようもない部分です。つまり、他国には見られないほど地価を引き上げることにより、莫大資本を作り、外国のモノ、特に資源を輸入してきた。
極論すると、日本の経済力はご婦人を劣悪な住宅環境に閉じ込め、家事・育児・介護という重労働を強いたことにより達成されたものとも云えるわけです。
 また、日本の公共料金と運賃の高さは世界一。生活費のなかで、公共料金はかなりのウェイトを占めています。また、国内旅行より、国外旅行の方がはるかに安い。日本の経済力、つまり、円の力は国外でしか、実感できないのです。
 さて、貴殿の資料で初めて知ったのですが、日本とオーストラリアを比較すると、日本人はオーストラリア人の3倍働いて、2倍の給料を貰っている。物価は3倍から5倍とのこと。それではいわゆる「可処分時間」が少なくなるのも無理ありません。日本では、自分のため、家族のため、社会のために使う時間を捻出するのは至難の業です。
 日本は物質的に豊かといいながら、それは相対的なものであること。しかも衣食住の基本的な部分にも恐ろしく高価なものもあり、それが日本を住みにくい国にしていること。また、女性の社会参加の機会を犠牲にして成り立っているような気がします。
 こうした前提を踏まえて、精神的豊かさとは何かを考えてみたいと思います。

<精神的豊かさと物質的豊かさの連関>
 精神的豊かさとは、「動的」なものでは、仕事に対する達成欲、勲章を貰うなど名誉欲、社内で昇進すること。これらは自己実現というものでしょうか。また、「静的」なものでは、愛する者とともに過ごす。趣味や文芸に生きる。自然を愛で、季節とともに生きる。配偶者とともに子供を育てる。これらも精神的豊かさを実感する瞬間でしょう。
 そして、精神的な豊かさを達成するためには、それらに傾注するために、その手段として、ある程度のお金=物質的豊かさは必要だと思います。
 さらに、精神的に豊かな人は、自分の物欲をある程度、抑えることのできる、あるいは満ちていると思えるだと思います。あるいは、モノを買う、所有すること以上に満足感が得られる何かを見つけられる、見つけたひとでしょう。それは、自分の家族や父母と同居して、同じ時間を過ごすことでいいと思います。

<日本で精神的豊かさを実感することは可能か>
 私の場合、自営業により、妻、つまり自分が愛した人ととともに仕事も生活が出来、両者の仕事への達成感も物欲の充足も、そして、家族への愛も同時に実現できるシステムを瞬間的なのかも知れませんが作り上げたつもりです。多少高くてもプール付の広い住宅を借りたことにより、妻の兄弟、姪や甥が週末、喜んで遊びにきてくれて、妻は親族の連帯感を強め、一族の長としての務めも果たすことが出来る。家事は気が向いたときにやればよい。あとはメードがやってくれる。そのことに、妻は充足感を得ています。但し、それは、フィリピンの物価のなかで、平均的フィリピン人とは比較にならない高収入を得ることによって、いいかえると貧乏な国で金持ちとして生活することにより、はじめて達成できた仕組みとも云えます。私が日本で試みて同じことができるかというと難しいかも知れません。
 日本ではメードや庭師など使用人の人件費と職場の豊富な都心における住宅費が高いので、一般的には、妻の犠牲なしに上記のことを達成するのは難しいと思います。

          90-2に続く→

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