久しぶりに残業というわけでもないが、社員が退社した後の職場にぽつねんと居残ってみた。今日も予定していた仕事の半分も消化できなかった。今日のようにアポイントメントで外出などすると、それだけで、3、4時間は軽くつぶれてしまい、さて、一日、何をやっただろうかという気分になる。
昔、ある先輩が「女だけは心して作れ。家庭がガタガタになるだけでなく、仕事以上に時間が食われるぞ」と云っていた。不幸にして、女は作り損ねたが、日比ビジネスクラブなる団体をこしらえた結果、これに大層時間が食われる事態となった。実際、今日の仕事のメニューを見ても、クラブの活動が4割にも及ぶのである。
では、それを一切やめてビジネスに集中してはどうかとも考えるのだが、どうせ集中力は長くは続かず、そのうち何かくだらぬ遊びにうつつを抜かすのが関の山。ならば、コミュニティー活動に勤しんだ方がまだまし、と思い直すのである。
子供にしても、団体にしても、そしてビジネスにしても、ひとつのものを生み育てるのに何年もかかる。しかもこれらは墓場には持ってゆけないものばかりだ。
齢40を過ぎると、「生きがい」とか「生きる意義」だとか、よく考えるようになる。私がそれに悩んでいるところで、30代のフィリピン人女房は、「今のうちに墓地を、私たち夫婦と兄弟姉妹のために買いたいの」などと、ボサッと云うものだから、無性に腹が立つ。
「お前な、人間も他の生き物も、死んだら何の意味もないの。俺は墓などいらねえ。俺の骨は焼いて、庭にでもぶちまけてしまえ!」
と怒鳴ってしまうのである。
私にはまだ「死への恐怖」はないが、「生きているうちが花」という考え方には賛同できる。死後の世界などどうでもよい。「生きているうちに何を遺すか」は気になるのである。
トラは死んでも皮を残すが、人間の皮は・・・うーん。不気味だ。ここで、我々人間は、本来、芸術や学術、ビジネスににおいて著作や業績を残すべきものとかっこよく述べてみたいが、そんな能力のない私のような凡人は一体、何を残せるのだろう。
フィリピンで出会った先輩諸氏は皆、口をそろえて言う。
「何を云っているんだ。フィリピンで遺すべきは<子供>に決まっているじゃないか。日本と違って養育費が安いんだから、できるだけ多く交わって、たくさん作れ!」。
私はそれに反論して、
「それだと、イヌやネコと変わらないんじゃないの・・・」
すると、
「当たり前だ、俺たちも動物なんだから・・・」
とこう来る。
「・・・・・・」
我家のラブラドールと雑種犬と同じ方向に首を傾げながら、
「うーん。ダーウィンの『種の起源』の前では、所詮、こいつらと一緒なのかー」
それでも、納得できない自分なのであった。