私は本コラム100回の節目に怒りに任せて下記コラムを書き、世論がまさしく私と同じ反応になっていたものだから、世論を先取りしたかの心地にて、正直な話、しばらくは有頂天になっていました。
けれどもいざ、世論が小泉首相を持ち上げ、人質やその家族に対する社会的制裁を加えているのを見るにつけ、私自身は正しかったのか疑問を感じつつあるのです。
今回は人質の家族が確かに「しくじり」ました。世論を味方にできなかった。けれども、もし人質の家族が「自衛隊撤退」や「小泉首相との面会」を言い出さず、じっとブラウン管の前で「救出してください」と涙の嘆願に終始していたら、世論はどのように反応しただろうか。
つまり、じっと耐える家族の姿を国民は見て、
「家族は健気(けなげ)だ→もし自衛隊派遣をしていなければ捕らえられなかった→自衛隊を撤退してはどうだろう」といふうに世論は形成されなかっただろうか。さらに最悪事態、つまり人質が殺されることにもなれば、
「小泉退陣」→次期首相候補は「自衛隊撤退」を公約に掲げて当選!ということにもなりかねなかったのでは。
さらに極左的思想の持ち主が仲間をいけにえにこのシナリオを決行したとすれば、上記のような結末は考えられまいか、と思ったのである。そう考えると空恐ろしい。そんな世論は意図的にブラウン管で形成されるのではないかと考えたのです。
さらに私は前回コラムではもうひとつたいへんな過ちを犯しています。
『イラクのインフラ整備のためになぜ建設労働者ではなく、自衛隊を派遣するのかその意味が理解できないのだろうか。』
などと私は書きました。つまり今回の自衛隊派遣は「危険地域におけるインフラ整備のための人道支援だ」と日本政府の立場をそのまま代弁したのです。
しかし、実際はそうではない。今回の自衛隊派遣における政府の「人道支援」とは建前であり、言い逃れであって、実際は「米国の同盟国たる日本の軍隊がイラクにおける示威行為のために」派兵したのです。
それはわかりきったことです。私はそのことに気づいていながら持論を進めるために不都合な上記の記述をしませんでした。
しかも私は
『(朝日新聞のような)メディアとそれに扇動された国民こそが、再び日本国を戦争に導くのではないかと危惧される。』
とさえ書きました。それは不都合な事実を隠蔽し、都合の良い情報だけをつまみ食いして持論を展開する悪しきジャーナリズムを非難したものでしたが、結局は自分も同じことをやっていたのです。しかも何の制約もないこのようなコラムでそんな過ちを犯した自分が情けなくて仕方がないのです。
私は知を信じ、智を信じる者であり、智を信じるからこそ国民の「知る権利」を唱えるものです。二度と戦争を起こさぬために、マスコミや政府に扇動されない「考える力をもった国民」を育成するために、社説を押し付けるのではなく、事実というものを、読者や視聴者が「考える素材としてありのままに」報道するジャーナリズム文化を期待しているのです。
それなのに、ここに簡単に扇動されやすい自分がいるのです。ああ、情けない。