私はフィリピン人と2度結婚している。
結婚の相手はどちらも敬虔なカトリックの家庭の娘だった。
さて、フィリピンでは「市民法上の結婚」と「カトリック教義上の結婚」は別物だ。そして神父の前で結婚式を挙げない限り、本当の夫婦とはみなされず、挙式せずして同居はありえない。
最初の妻はミンダナオ島のサンボアンガ市の出身だった。彼女と婚姻届をして、楽しく同居していると、届け出から半年後、結婚式に参列するためにマニラにやってた義父が、既に同居をしていることを初めて知り、苦虫を噛み殺したような顔で私を睨んだ。でもそのときは自民党的いわゆる既成事実の積み重ねが功を奏してそれを飲んでもらった。飛行機で1時間という田舎との距離が両親の宗教的倫理の押し付けを阻んだのである。
二度目の妻はやはりマニラから遠いネグロス島バコロッド市の出身だった。けれども前回とは異なり、彼女の家庭は彼女が中学を卒業した頃、一家全員でマニラに移住してきていて、彼女も含め兄弟姉妹ほとんどがマニラで大学を卒業していた。
その彼女と結婚入籍をしようとすると彼女の兄と姉が私の前に立ちはだかった。まず彼らはフィリピンの法律では離婚が許されていない。ゆえに妹との結婚は法的に無理のはずというフィリピン法律論を展開した。私は、「大丈夫。必ず離婚してみせる」と言い切り、そしてそれから1カ月余りで、見事に日本の役所で離婚届をして、ほれみろとばかりに彼女と結婚、入籍をした。
さて彼女の家は遠かった。マカティから往復3時間。これでは身も車も、財布ももたない。最速で婚姻届をしたのはその距離を解消するためでもあった。
けれども彼女の兄と姉が私の前にまたしても立ちはだかった。「入籍したからといって同居は許さない。妹は結婚生活の準備ができていないし、私たちは君のことをよく知らない。何よりもまだ結婚式を挙げていないではないか。神の前で婚姻を誓わぬ限り、同居はさせられない」というのである。
兄にとって私の妻は大のお気に入り。彼はその頃私より若い32才。独身ではあったが大企業の部長を勤め、アロヨ大統領と同じ月額5万ペソを得る秀才だ。
姉はそのとき30才。独身で男もいなかったが大学を総代で卒業し、公認会計士試験に一発合格をしたさらに秀才。どちらも強敵である。
その秀才二人を相手に私は英語のディベートを強いられた。未婚の若造どもが「ちょこざいな」と思っていた。私は主張した。
「君たちは結婚式がすべてのように言っているが、僕もかつて永遠の愛を祈願してサンアグズチン教会という16世紀に建立された由緒ある教会で結婚式を挙げたがその結婚は16年で潰えた。つまり教会における結婚式は永遠の結婚を保証するものではない。結婚生活を支えるのは愛であって式ではない」
大学を総代で出た姉とやはり優秀な成績で卒業した兄を相手に私は持論をぶちあげた。
総代の姉がぽろっと云った。
「ミスターヤラの云う通りね。結婚式は永遠の結婚生活を保証するものではないわ」
この言葉を最後に秀才コンビの磐石の布陣は崩壊し、その議論の一部始終を聞いていて敗北を悟った義母が立ち上がり、不機嫌そうな顔で玄関を出て日傘を広げ教会へ向かった。その光景は今でも私の眼に焼き付いている。
私は心中「やった!」と叫んで、彼ら気持ちが変わらぬうちにと大急ぎで妻を車に乗せ、アクセルを一杯に踏んで最速でマカティへと走り去ったのであった。インテリはインテリゆえに理の前にもろいものだ。
ん?さて私は一体何を論議しているのだろう。
そうそう、要するにだ。私が言いたいのはフィリピン人と結婚をするということはそういうことだということだ。
おいおい、それはどういうことだといいたいのだ。
結婚の相手はどちらも敬虔なカトリックの家庭の娘だった。
さて、フィリピンでは「市民法上の結婚」と「カトリック教義上の結婚」は別物だ。そして神父の前で結婚式を挙げない限り、本当の夫婦とはみなされず、挙式せずして同居はありえない。
最初の妻はミンダナオ島のサンボアンガ市の出身だった。彼女と婚姻届をして、楽しく同居していると、届け出から半年後、結婚式に参列するためにマニラにやってた義父が、既に同居をしていることを初めて知り、苦虫を噛み殺したような顔で私を睨んだ。でもそのときは自民党的いわゆる既成事実の積み重ねが功を奏してそれを飲んでもらった。飛行機で1時間という田舎との距離が両親の宗教的倫理の押し付けを阻んだのである。
二度目の妻はやはりマニラから遠いネグロス島バコロッド市の出身だった。けれども前回とは異なり、彼女の家庭は彼女が中学を卒業した頃、一家全員でマニラに移住してきていて、彼女も含め兄弟姉妹ほとんどがマニラで大学を卒業していた。
その彼女と結婚入籍をしようとすると彼女の兄と姉が私の前に立ちはだかった。まず彼らはフィリピンの法律では離婚が許されていない。ゆえに妹との結婚は法的に無理のはずというフィリピン法律論を展開した。私は、「大丈夫。必ず離婚してみせる」と言い切り、そしてそれから1カ月余りで、見事に日本の役所で離婚届をして、ほれみろとばかりに彼女と結婚、入籍をした。
さて彼女の家は遠かった。マカティから往復3時間。これでは身も車も、財布ももたない。最速で婚姻届をしたのはその距離を解消するためでもあった。
けれども彼女の兄と姉が私の前にまたしても立ちはだかった。「入籍したからといって同居は許さない。妹は結婚生活の準備ができていないし、私たちは君のことをよく知らない。何よりもまだ結婚式を挙げていないではないか。神の前で婚姻を誓わぬ限り、同居はさせられない」というのである。
兄にとって私の妻は大のお気に入り。彼はその頃私より若い32才。独身ではあったが大企業の部長を勤め、アロヨ大統領と同じ月額5万ペソを得る秀才だ。
姉はそのとき30才。独身で男もいなかったが大学を総代で卒業し、公認会計士試験に一発合格をしたさらに秀才。どちらも強敵である。
その秀才二人を相手に私は英語のディベートを強いられた。未婚の若造どもが「ちょこざいな」と思っていた。私は主張した。
「君たちは結婚式がすべてのように言っているが、僕もかつて永遠の愛を祈願してサンアグズチン教会という16世紀に建立された由緒ある教会で結婚式を挙げたがその結婚は16年で潰えた。つまり教会における結婚式は永遠の結婚を保証するものではない。結婚生活を支えるのは愛であって式ではない」
大学を総代で出た姉とやはり優秀な成績で卒業した兄を相手に私は持論をぶちあげた。
総代の姉がぽろっと云った。
「ミスターヤラの云う通りね。結婚式は永遠の結婚生活を保証するものではないわ」
この言葉を最後に秀才コンビの磐石の布陣は崩壊し、その議論の一部始終を聞いていて敗北を悟った義母が立ち上がり、不機嫌そうな顔で玄関を出て日傘を広げ教会へ向かった。その光景は今でも私の眼に焼き付いている。
私は心中「やった!」と叫んで、彼ら気持ちが変わらぬうちにと大急ぎで妻を車に乗せ、アクセルを一杯に踏んで最速でマカティへと走り去ったのであった。インテリはインテリゆえに理の前にもろいものだ。
ん?さて私は一体何を論議しているのだろう。
そうそう、要するにだ。私が言いたいのはフィリピン人と結婚をするということはそういうことだということだ。
おいおい、それはどういうことだといいたいのだ。